2014年6月4日

わがパソコンの腕前は、一向にはかどらない。それも道理。一週おきに休んでいては、進歩の仕様がないではないか?しかも、週に一度の二時間足らず、ときたモンだ。これではまるで、どっかの大学の英語の授業のようなものだ。週に一度、大先生が選んだテキストの2、3頁ほどの分量を、指名された4、5名の学生が後生大事に、数行ずつ訳させられる。こうして学期は終わる。クラスに4、50名いるとして、学期の間に各人が読んだ量は、ナント、10行たらず・・? かくて立派な大学生並みの語学力がつくというわけだ。モチロン、教授がわにも、それなりの理屈はあって、チャンと理論武装はされている。学生たる者、自ら学ぶべし。仮にも、人からの教えを乞うべからず。ジャア、彼らは何のために教授先生としているのだ?決まっている。いなければ、メシがくえん。言っておくが、これは断じて、わが前職の大学のことではない。

今日もまた脱線。こんなことを書くつもりはまるでなかった。前回の続きのはずであった。何もかも満ち足りたこの時代にあって、だれでも皆、安直に、苦労もなく、すべてのことが手に入れば、人はいつ、ドンナ風に己の心を鍛えればよいか?であった。ノッピキナラナイ、逃れられない他者との我儘に付き合わされる悲劇に出会って、人は泣く泣く成長するのだろう。シンドイといえば、シンドイ話だ。

だがしかし、である。こんな仕組みが成り立つとすれば、たとえば上司の我儘もある規範の中に納まり、受け手もそれを良しとする、そんな範囲があるのではないのか?何事も瞬時に、易々とできるように見える時代では、ダーレモ心が練れていないわけだから、上司もまた、則を超えた要求、我儘を押し付け、部下を必要以上に苦しめることになりかねない。これでは人は成長どころの話ではない。かえって,折角の人材を壊してしまう。いや、これらはすべて、これまでのわが行状にたいする心かなる反省である。

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