2014年5月21日

5月21日・水曜。このところ、水曜のたびに雨が降る。時に、雨は恵み、慈雨ともなるが、これを受けるこちらの気分次第で、印象はまるで反対だ。何事もそんな具合に、心の動き、気の向くままに、同じ事柄が晴れたり、曇ったり、あるいは青になったり、赤になったりされては、天気は何とも思うまいが、それに付き合わされる周りはタマッタものではあるまい。とくに、相手が上司であったり、得意先やら、はたまた、アアソウカイ、ソレデハサヨナラ、ゴキゲンヨウ、ってな具合に行かない相手であれば、なをのこと始末が悪い。だがものは考えよう。そんな相手を持てばこそ、人は成長するもの。昔の人は言っている。若い時の苦労は金を払っても、負え、と。
この言には、一理ある。今の若いモンは、と殊更にエラソウナ事を言うわけではない。その心算もない。いつの時代も、若者は年寄りたちからあれこれ言われるのが通り相場だ。それを言う年寄りたちも、変わりはなかった。むしろ、ここで私が言いたいことは、こうだ。現代は、何事も安直に手に入り、我慢がない。その必要もない。他人の持っているものは、なんでも欲しがり、それが無ければ、何かとてつもないものを失ったかのような喪失感に苛まれ、さらには自分の劣等性を突き付けられたような悲壮感を持つ。それでいて、部屋には入りきらないほどのものであふれている。これを何と表現すべきだろう?・・確か、誰かが言っていた。「豊富の中の貧困」。そして、そんな心情は、老若を問わぬ。己れ自身の心の鍛錬。別けても老人のそれこそが、問題だ。私はこの年になって、つくずく思う。私は熟していない。若いといえば、聞こえはいいが、要するにそれは未熟ということ
だ(次回に続く)。


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